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地域に密着した施設

ヤングパワー(仮名)

 

小規模多機能型居宅介護は、定員29人で通所・訪問・泊まりの三つのサービスを組み合わせて利用する仕組みとなっている。通所介護や訪問介護は地域支援事業の地域サロンやボランティアへと移行し、統廃合も進む。

通所介護と訪問介護は減ると予想される。

だが、小規模多機能型居宅介護を新たに始める事業所もある。

なぜ、小規模多機能型居宅介護なのか。

小規模多機能型居宅介護夫婦事業所を夫婦で事業所を経営する南さん(仮名)に取材してみた

 

 ○県の小規模多機能型居宅介護事業所ヤングパワーは今年オープンした新事業所である。平屋建てで畳部屋が5部屋あり、職員は13名、管理者と看護師そしてケアマネを含んでいる。通いのサービスでは入浴介護やレクリエーションを行っている。月に何度行っても月ぎめの金額を支払うというシステムで通所介護の回数を多くしても料金が変わらず、利用料の算定がしやすいという特徴がある。

 マツノさん(仮名)は見当識障害も見られず元気な93歳の女性。手芸が趣味でもともとは和裁の先生をされていた。ご主人が早くに亡くなられている。何でもご自分でできる方だったが、関節痛を煩うようになった。入院治療をし、退院後にこの施設で長期間の泊まりを始めた。マツノさんを一年後の在宅復帰に導くことができたのも地域に密着した小規模多機能型居宅介護の成果である。

 最初は半日の在宅生活からはじめ、できることを少しずつ増やすようにした。今は自炊ができるようになり、食材の買い物も近所の小さな店に一人で出かけている。近所の人の協力もあり、安心して生活できる。現在、概ね通所介護に出かけ、土日のみ自宅で過ごされ、土日は安否服薬確認を訪問介護として行っている。

 住み慣れた場所で、生涯暮らしたい。そういった、高齢者の願いを実現できるのは地域に根付いたサービスだからこそだと考える。

 

 2025年、団塊世代が75歳になり、要介護の高齢者は増え続けるであろう。2014年の制度改正では、地域包括ケアシステムの構築として「重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを最期まで続けることができるよう、医療・介護・予防・住まい・生活支援が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築を実現する」としている。これから先、特養の需要がより見込まれる。そのため、特養等の待機者は増え続ける。小規模多機能型施設の定員等を規制緩和していくことにもなり、小規模ならではの良さを失うことになるのではないかと危惧している。

 

 

 

 

     【平穏死という選択を読んで】

 

 「殺してください。殺してください。」胃ろう者のフロアでよく聞く言葉だ。胃ろう者の中には、ご家族がし足しげく見舞う利用者もあり、誰も見舞う人のいない利用者もいる。この本のアンケートによると8割の人が、「老衰の末そのような状態になっても胃ろうをつけたくない」と答えているように、私の施設の胃ろう者の大半もそれを望んでいなかったのかもしれない。もちろん、せっかく延ばした命だから、愛情をもってケアに当たることは言うまでもない。問題はご利用者本人が胃ろうによる延命を選択したかということである。

 今の日本の医療は、口から食べ物が食べられなくなると、すぐに胃ろう造設するよう医者が家族に勧める。施設に勤める同僚も「胃ろうになってまで生かされたくない」と言う。にもかかわらず、施設の胃ろう者は増えるのである。

 医者が胃ろうを勧めるのには、刑法上の問題がある。胃ろう等の処置により命を助けなければ、刑法上「不作為の殺人」に問われることがあるのである。「不作為の殺人」をわかりやすく言うと、例えば、幼い子どもが川で溺れた時に保護者である母親が助けずに見殺しにした場合、保護する責任を果たさず死に至らしめたという罪である。その他にも、「承諾殺人罪」というものもある。そして、医師には「道義的・一般的」に救命義務があるとされる。

 筆者と志を同じくする弁護士は、「平穏死の要件」を提案している。彼は「日本には、違憲立法審査権というものがあり、法律も変えることができる」と言う。

 日本国憲法に保障された基本的人権。人生の終末を誇り高く生きる。生きとし生けるものいずれ終末を迎える。これも生きていくものの必然であり、侵してはならない自然権であろうと筆者は述べる。

 平穏に最期を迎えるためには、今の医療のあり方では難しい。それを解決するためには、家族や関係者が正直に本音を言える状態を作れば良いとも筆者は述べる。

 祖母や祖父、親そして自分。人生の終わりを平穏に迎えるという当たり前のことを実現するためには、考え、話し合い、協力し合うという努力が必要なのであろう。

 

             「平穏死」という選択 石飛 幸三 (著)幻冬舎ルネッサンス新書 

      【オレンジプランとボランティア】

 

ケアマネとして介護に携わるものとして、考えるべきことは私たちがどこに行くか?なのではないでしょうか?
タケさんが問いかけているのは地域包括ケアシステムのことです。そして私たちが苦戦した難問は「私たちはこれから地域包括ケアシステムを支えるのですよ、地域包括ケアシステムをわかっていますか?」ことが問われていたのではないかと思います。
「情は人のためならず」というように手助けを必要としている人に手助けをすることは人とした当たり前のことだと思います。欧米ではボランティアなどの活動してこそ自立した人であるという考え方もあります。それは自分の生活を支える仕事があることを前提としています。人は1人では生きていない、米1粒食べるにしても生産流通等のたくさんの人の手が加わっているからです。
私は、たけさんも私たちがどこへ行くのか考え気づかせようといろんな問題提起をしてくれるところがボランティアの精神があるなあと思います。
ところで問題の根本はそんなところにないのです。
1950年1人の高齢者に対し12人の現役世代で支えていました。2014年1人の高齢者を2.6人の現役世代で支えています。今までたくさんの税金を納めてた団塊世代が介護される世代になります。
国に税金がなくなります。認知症の高齢者が今よりもどんどん増えてきます。その人たちを支える人たちもどんどん減ってきます。
そこで国が出したのは新オレンジプランです。簡単に言えば
認知症の人の在宅生活の継続、共助や自助をすすめます。
訪問介護の人、デイサービスの人は仕事がなくなります。なぜなら、その部分を日常生活総合支援事業という老人サロンや話題にのぼった買い物ボランティア見守りボランティアなどが担うことになるからです。
ここで考えるべきはそういった労働を安く提供することで「食べていけない人」が生み出されるのではないかということ。
100円ショップで皆が買い物をし、今まで150円で売っていたお店の従業員が失業するってかんじかな?
そこへ向かおうとしているんですよね?
100円というのは国に対して100円です。利用者ではなく。

そして、介護者はどこへ向かっていくのか?
ずいぶん前に『銀河鉄道999』という漫画を読みました。銀河を旅するテツロウが行った星の中に“プラネットベガー(乞食の星)”というのがありました。最初は権力者による富の独占。そして貧しい人が乞食になりどんどん増えていき、すべての人が“おもらい”をするようになった。そこへは…行きつきたくないですよね。
私の現状で考えられる道は、「介護の仕事を続けること」か「介護をやめて他の仕事をすること」か「失業すること」でしょう。どの道に進んでも日本列島と運命を共にしていることには変わりはないのです。
わたしはどう生きるのでしょうか?

 

 

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